ミーティングの際に「対案を出せ」というメンバーがいる場は要注意
私はディベートが得意とは感じていません。
打ち合わせにおいての話し合いの中で、本当に質の高い考えが必ずしも勝つわけではなく、
どうしても、論法みたいなテクニックによるところで結果が変わることが大きく、
もちろん苦手なこともあるが、好きではないです。
好きではない一例として、
例えば何かの方針を話しあっている際、「それはあまりよくないのでは?」と発言した人間に対して、
「では、対案を出せ。」という論法。これはストレスが溜まりますよね。
どちらが建設的な意見かと言われたら、一見「対案を出せ」と言った人間が正義かのように感じるが、
問題を指摘した人間にとっては、明らかに批判を目的とした内容ではない限り、
自分だけが気づいたかもしれない、だが確かに存在する問題を差し当たり提起し、
皆で認知・共有するために言った、こちらも確かな建設性を持った発言であって、
同時に、その問題というのは、大概が提起した人だけの問題ではなく、
自分を含めたみんなの問題であるので、
差し当たり問題を提起した人間と、対案を出す人間が同じであるという必要性があるわけではないですよね。
その問題点を「じゃあ対案を出せ」と即座に言う論法は、
一見すると、”建設性を損ねる発言を戒める”いう印象を受けるし、本人もそのつもりでしょうが、
実のところは、単純にムッとして、提起者個人に責任をかけ、潰しにかかっているだけといった、
むしろ、こちらの方が逆切れ的レベルで建設性のない発言者であることが多いのではないかなと思います。
実際、問題提起した人もそれを言われたら発言したことを後悔するかもしれない。
周りの人間も、「実は自分も問題だと思っていたけども、言わなくてよかった・・・」と思うのであれば、
なにかそこにおかしな磁場が発生しますよね。
実際の場では、誰の発言が優れているか。のジャッジは、
その場の雰囲気や流れによって変わるもので、
その流れというものは、討論の技術力によって決まってくるのだなと思うと、本来の目的ではないですよね。
そして実際、「対案を示せ」の方が議論のテクニックとして有利だという感がある。
話は変わりますが、”前向き”という言葉は、とても良い響きではあるが定義がアバウトで、
例えば”前向きな人間が集まる集団”という理念に対して、
解釈を間違えると、「じゃあ対案を出せ」側の人種が極端に強い集団になってしまう危険性を孕んでいると感じます。
会議などで発言頻度が参加者中小数人に固まり、発言数が少ないメンバーがいるのも、こういった流れに対するものも一因ではないかと感じます。
問題提起に対して、重箱の隅をつつかれたような条件反射はひとまず置いといて、
「ネガティブ発言も建設的に変換してみよう!」とその問題に向き合って話し合う事をルールを作ることが解決策になってくると思います。